だって 笑夏 ( えみか ) だもん!😉

太陽🌞から生まれ、 たくさんの 気遣い 心遣い と、おもてなしの心 の元に育ちました。

幸せリスト

 

 

 

 

f:id:emmiii8:20170920234048j:image

 

 

自分自身を置いている環境を、

大きく変化させようとするとき。

 

極端に言えば、

何かを新たに始めるとき、今やっていることを辞めるとき。

 

 

問題として起こりやすいのが、

 

○○○するには「 お金 」が足りないよな...

△△△するには「 時間 」が足りないよな...

 

な、問題たち。

 

 

特に お金の問題なんて、

悩み始めたら、ほんとうに どこまでも長く続く

暗〜いトンネルのように、答えが出なくなってしまうもの。

 

 

よく耳にする1つとして、

「 ○○にお金を費やすから、△△は諦める 」

という考え方?がある。

 

トレードオフな考え方をする場合は、

なかなか しっくりくる考え方だろう。

 

わたしも少し前までは、これを元に

いくつかパターンを考え、それらを見比べ、

今の自分に必要な選択肢を選び出してきた。

 

 

が、

 

いつだったか

スタバで 注文している自分を、客観的に観察していて ハッとしたのだが...

 

今、自分が飲みたい飲み物のサイズは、

自分で決められているじゃん!

 

(笑)

 

 

つまり、

 

『 今の自分に必要な 飲み物の量を

自分で把握できているが故に、

 

それ以上 大きなサイズを、“ 不必要 ” と判断して 注文することはない 』

 

ということ。

 

 

もっと噛み砕いて言うと、

 

“ tallサイズ ” のキャラメルフラペチーノが 飲みたかった わたしは、

Grandeサイズ までは必要ないし、ましてや Ventiサイズ なんて 間違ったって頼まない。

 

むしろ、

必要以上に量が多い = そこまでは “ いらない ”

とまで感じることだろう。

 

これは 今の自分にとって必要な量が

明確だからこそ、出来る判断だと思う。

 

 

ではこれを、

自分のやりたいこと、欲しいもの、等々の

お金に関わることに置き換えてみよう。

 

書き出してみると よく自覚出来るが、

 

わたしたちは いつから、

「 あれもこれも 」になってしまったのだろう。(笑)

 

飲み物に例えると、

今の自分にとって ほんとうに必要な量が分かるのに、

 

どうしてそれを

時間のこと、お金のこと とすると、

 

いつの間にか、必要と分かっている量を越してまでしても

「 あれも足りない、これも足りない 」と口にしてしまうのだろう。

 

 

 

わたしは 何か大きな決断をするとき、

必ず、自分で作った「 幸せリスト 」を見る。

 

そこに リスト化されている事柄たちは、

わたしが必要とし、十分だと感じる量であり

 

と同時に、

幸せを感じることのできる量でもある。

 

 

そりゃ、わたしだって

1ヶ月くらい 長期で休みを取って、

 

モルディブの水上コテージ?で

海の中の魚たち🐠を見ながら

フルーツの盛り合わせを食べて、

 

夕方になれば、

夕日が沈んでいくのを見ながら スパでリラックスしたいですよ。

 

毎週休みの日は

憧れのデザイナーさんの、上品なシルエットのワンピース👗に 身を包み、

JIMMY CHOOの美しいパンプス👠に 足を滑り込ませて、

夜景の最高なスイートに宿泊できたら

 

どんなに 充実感を得られることだろう。

 

 

もし、湯水の如く お金が舞い込んで来る環境であるなら 羨ましい話だが

 

でも実際

自分で 自分の馬を養って カツカツ生活をしているわたしが、

「 幸せリスト 」に書いているTOP3は

 

1、ローツェのオーナーでいる

2、ローツェでトレーニング方法を学べる

3、ローツェで頻繁に競技に出られる

 

とまあ、馬のことだらけ。(笑)

 

ちょっぴり欲張った、2つ目の「 幸せリスト 」も、

結局書いてあることは

 

・馬場のトレーニングとして使えるように、障害も学びたい

・外国の馬に乗りたい

・外馬で競技に出たい

ナチュラルホースマンシップを学びたい

・獣医学等、馬の体のことを学びたい

・海外に競技を見に行きたい

 

と、まだまだ続くが...。

 

こんな感じで、馬のことだらけ。(笑)

 

 

どうやらわたしは、

生活水準を上げることよりも 「 馬に関することを学ぶ 」ことに 大きな魅力を感じているらしい。😂😂

 

 

 

 

 

脳みそ改革

 

 

 

 

 

 f:id:emmiii8:20170919175636j:image

 

 

 

 

 

「 現象には、必ず理由が存在する 」

 

かの有名な 『 ガリレオ 』で

福山雅治 演じる、物理学者 湯川先生の名言。

 

 

わたしが、ずっと前から

習慣付けていることがある。

 

「 自分に降りかかった現象に、

片っぱしから “ 意味付け ” をする 」こと。

 

 

それを 習慣付けるべく、意識し始めたのは

中学生の頃だろうか?

 

大人数をまとめる 部長という立場が、

想像以上に 重くのしかかってきていたとき。

 

練習試合、大会で、練習量に比例すると思っていた結果が 思うように出ず、

メンタルが ズタズタだったとき。

 

受験で、勉強しても勉強しても

模試での 第一志望校の合格判定が、最後の最後まで E判定だったとき。

 

 

 

湯川先生の言う通り

わたしたちを取り巻く ありとあらゆる「 現象 」には、必ず「 理由 」がある。

 

 

お気に入りのお花の 花びらが

落ちてしまったのも、

 

素敵だなと思っていた洋服を買いに

お店に行ったものの、すでに無くなっているのも、

 

単純だけど、

お菓子の袋が どう頑張ったって開かないのも、(笑)

 

 

ここで気づきたいのは、

 

それが起こった「 理由 」はあっても、

「 意味 」なんてものは、どこにも “ 存在しない ” ということ。

 

なぜなら、その現象に対しての「 意味付け 」をするのは

“ わたしたち自身 ” であるから。

 

 

大切にしていた物を無くしたら、

 

「 あ、神さまが

そろそろ 新しい子と出会いなさい って言ってる〜 」

って思えばいい。

 

いつも 車でお迎えに来てもらっていたものを、

自分で 重い荷物を持って バス移動しなくてはならなくなったら、

 

「 朝の 気持ちのいい風を感じながら、

スタバ片手に 本を読む時間が 確保できた〜 ラッキー♪ 」

って思えばいい。

 

 

一見、

マイナス要素にしか感じることができない事柄たち、

 

たしかに、わたしたちに 降りかかってくることの「 理由 」はある。

 

が、その「 意味 」はない。

 

わたしたちが

目の前に存在する事柄に「 意味 」を付けることで、

 

言い方を変えるならば

わたしたちが勝手に、ラッキー要素として捉えることで

 

例え、マイナス要素の事柄であったとしても

わたしたちにとって 価値あるものになることだろう。

 

 

何事にも、ラッキー♪ と思える

脳みそ作りを😉

 

 

 

 

 

 

 

 

「 変更します!🤚🏻⚠️ 」

 

 

 

f:id:emmiii8:20170915151517j:image

 

 

 

“ 今後のため ” に、

blogの書き方を ちょっぴり 変えようと思います🙃🙃

 

できるだけ

“ 毎日 新しい記事📑が更新されている ” 状態にしたいから、

 

ガツッと書くときもあるけれど、

普段は もっと気軽に触れられる内容を😌😌

 

 

あそこにも ここにも書けないような内容は

 

ときどき 物語風にして、

主人公を 動物🦁 なんかにしちゃったりして、

 

表現していけたらいいかな、なんて。

 

 

 

「 そろそろ 種🌱を撒き始めなさい 」って

声が 聞こえてきたよ。🌛

 

 

 

 

 

 

 

 

理由は 簡単

 

 

 

 

「 笑夏 ( えみか ) 」が、このblogを書く理由...

 

“ 苦しいから ”     以上。

 

 

なに言ってんだ、バカか こいつは。

大半の人は そう思うだろうが

そこに関しては、致し方ないと もう既に割り切れている。

 

 

ただ、

先日 誕生日を迎えて 23歳になったばかりの

今、このタイミングを上手く利用し、これを明らかにすることで

 

自他ともに

“ その ” 存在を 深く理解できるチャンスだとも思った。

 

 

焦らしても仕方ないので、先に言ってしまおう。

 

“ その ” 存在 とは、

わたしの 頭 という器の中にある、「 源泉 」だ。

 

要は、

水や温泉が 湧いて出てくるのと 全く同じで

 

時に「 熟語 」単体で、

時に 驚くほど鮮明な「 ワンシーン 」が切り取られた状態で、

時に あまりに ふわふわした抽象的な「 イメージ 」で、

 

わたしの 頭の中にある器に

次から次へと、止まることなく湧き出てくる。

 

これが、源泉に 蛇口のようなものが付いていて

それを捻ることによって 湧き出てくる量を調整できたり、

そもそも 湧き出てくるのを止められたら、

 

もっともっと、この源泉を 上手く利用できるのだとは思うが...

 

今のところ、蛇口はおろか

源泉に被せる 蓋 のようなものさえも、見つかってはいないのだ。(笑)

 

だから時々、

湧き出てきたものが 飽和状態を経て、

わたしの頭の器から溢れ出てしまうことがある。

 

こうなったらもう

ひどい頭痛に襲われ、呼吸すら上手くできなくなり、

追い打ちをかけるように、目まいが始まる。

 

 

 自分自身も おかしな話だとは思うのだが、

この源泉は、わたしにとっては “ 生きている物 ” 。

 

これを飼い慣らす、

つまり、湧き出てくるものを上手く利用するには、

 

自分の「 中に 入れる作業 」よりも、

自分の「 外に 出す作業 」のほうに

重きを置くほうがいいと思っている。

 

 

結論を言ってしまえば、

 

blogという 1つの表現の場 を通じて、

器から溢れ出る前に、言い方を変えれば、苦しくなる前に、「 外に出す作業 」をしてしまおう

というわけだ。

 

 

だが、これが そうも簡単には いかない。

 

まず、

湧いて出てきたイメージに、「 言葉 」という形を与え

且つ それらを紡いで「 文章 」にする。

 

これらの

「 言葉 」への 変換 と、「 文章 」への 移行 を繰り返して

はじめて 他者に向けられるものになるのだから、

そこには 時間が要される。

 

わたしが、日常のコミュニケーションで発する言葉 1つ1つは、

実は この一連の流れによって もたらされている。

 

今、書いている この文章さえも、

「 イメージ 」から「 言葉 」への変換作業を経て、「 文章 」に移行されているのだ。

 

 

このblogは

わたしにとって、「 表現の場 」の1つである。

 

 

 

 

 

消去法で 生きる

 

 

 

 


わたしは、「 消去法な 生き方 」を好む。

 

 

 

これは、

わたしを取り巻く 環境下において

 

“ 身の回りの物や 事柄を「 増やしていく 」”

というよりも、

 

“ 大事なもの以外「 切り捨てる 」”

という、わたし独自の考え。

 

 

例えば。


机の引出し、タンス、
冷蔵庫、靴箱などなど。

 

仕事場から プライベート空間まで

わたしたちの身の回りに存在する あらゆるものは、


大きく分けて2つ、

「 いるもの 」「 いらないもの ( 今 使っていないものも含む ) 」に分類できる。

 

それは、

「 物 」という 目に見える形で存在するもの のみならず、

「 頭の中 」も同じだと思っている。

 

そこには、
「 今は使わないけれど ( なんなら最近は 全く使っていないけれど ) 、
もしかしたら 今後使うかもしれない 」

 

なんていう

中途半端な、3つ目の分類ボックスは存在しない。

 

重要なのは、 

「 いるもの 」「 いらないもの 」の 2つに

必ず 分類すること。

 

 

分類した結果、

そこから 自然と導き出されるのは

 

“「 今、必要ないもの 」を その場から取り去ることで、
必然的に「 ほんとうに大事にしたいもの 」が浮き彫りになる ”

 

ということ。

 

もちろん これは、

頭の中も 心の中も同じ。

 

必要ないもの、つまり わたしたちにとっての あらゆる「 ノイズ 」を取り去ることで、

 

わたしたちの身体が表現する、嘘偽りのない 素直な反応 を

自らの脳で作り上げた 理性に潰されることなく、


本能的な形 そのままに

受け取ることができる、というメリットを 兼ね備えている。

 

 

この反応は、本能的に感じるものだから


どうしても 身の回りに存在するノイズに 紛れて見えなくなってしまうもの。

 

自らが溺れてしまうほどの
あらゆる選択肢の中から、

 

手の届かない 遠くの方にある

小さな小さな「 大事なもの 」を探しにいくなんて、


少なくとも 今のわたしは、

そんな 途方もないことに費やす時間は

持ち合わせてはいないだろう。

 

 

 消去法な生き方に 切り替えてから、

決してノイズに紛れることなく

わたしの目の前に 姿を現した、

 

“ それ ” 。

 

わたしが 消去法の生き方 に切り替える前、

1番に集中したいと思い続けていたのに

なかなか集中できず 涙していた、ほんとうに大事なもの。

 

尚且つ、ほんとうに大好きで

途方もないほどに 愛おしく、心の底から守りたいと思っているもの...。

 

 

消去法で生きることによって、

“ わたしは、”  大事なものが

より明確になった。

 

さぁ、

次へのステージへと 歩み出そうじゃないの。

 

😊😊

 

 

 

 

 

 

 

 

「 今 」に集中する 〜 先を読みすぎる 症候群 ⑶ 〜

 

 

 

 

「 先を読みすぎる 症候群 」の記事は、

今回を 最後としたい。

 

 

もう少し、今までの流れを思い起こして

blogに残そうと考えたのだが、

 

道が開けた 今のこのタイミングで、

 

丁寧に過去を振り返り、

「 あの頃の自分があったから、今の自分がある 」なんて

そこら辺に 落ちているような台詞を使って、自叙伝を書き上げるつもりは、さらさらない。

 

2つ下書きしたページも、

思い起こして 言葉にすると

あまりに表現のリアリティに欠けてしまって、

あまりに ありふれた物すぎて、

全て削除してしまった。

 

過去が 今の自分を作っているなんて

そんなの当たり前で、

 

どういう形であろうが、今までの経験があったからこそ 今があるのも、

誰しもが同じ。

 

わたしは、そんな薄っぺらい表現を当てはめるほど

頭の中に生まれた余白を そのままの状態にして、日々を過ごすことはない。

 

 

 

わたしにとって「 過去 」は、

「 かさぶた 」みたいなもの。

 

過去に負った傷は

たとえ その時、血が止まらなかったとしても

 

時が経てば、

膿んだり ふやけたりを繰り返しながら

しだいに かさぶた になっていく。

 

“ かさぶたなんて、放っておけばいい ”

 

これが、わたしの「 過去 」に対する考え。

 

かさぶたなんて

放っておけば、気づかないうちに ポロッと取れている。

 

わたしにとって「 過去を振り返る 」ことは、

「 やっとできた かさぶたを、自らの手によって引き剥がす 」ことに等しい。

 

痒い 痛い を繰り返しながら

時を経て やっとできあがった かさぶたを、

 

また血が出てしまうことを分かっていながら、

なぜ 引き剥がそうとする?

 

なぜ あの頃の感情を、

わざわざ呼び起そうとする?

 

 

わたしたち人間は、

「 今 」を生きている。

 

過去でも 未来でも、

もっと言うならば、今日でもない、

「 今 」この瞬間だ。

 

たとえ目の前に、

どんなに素晴らしい世界があったとしても、

 

たとえ目の前を、

自分が掴みたかったチャンスが 通ろうとしていたとしても、

 

その時、

すくっても すくっても、手のひらから落ちていく水 のような「 過去の感情 」に 浸っていたとしたら、どうだろう。

 

あれも これも、と

「 未来 」への 不安や 焦り、恐怖に苛まれていたとしたら、どうだろう。

 

 

間違いなく

何を見ても、聞いても、感じても、

それを 深く味わうことは出来ないだろう。

 

あらゆるタイミングを感じ、

そのタイミングごとに訪れる1つ1つを 深く味わうことが出来るのは、

 

「 今 」に集中している人だけの 特権

だとさえ思う。

 

 

“ 流れ ” を把握し、

“ 方向性 ” や その中で生じた変化を見失わないようにしながら

 

その中の 目的 や “ 段階 ” を明確にし、

物事の “ 全体 ” を把握しながら進む。

 

でもそれらに 拘泥することなく、

いい意味で、ぼやーっとした霧に包ませておいて、

「 今、目の前にある “ コレ ” に集中する 」を大事にする。

 

 

お裁縫に例えるとするならば、

 

ここを縫おうと、布に チャコペンで “ 線を引っ張り ” 、

何ヶ所か 通過点になる場所を “ マチ針で仮止め ” しておく。

 

そこまで出来たら、

あとは “ ひたすら縫う ” ことに集中するのみ!

 

と いったところだろうか。

 

ひたすら 縫い進めていけば

必ず、マチ針に行き当たる。

 

その度に、また新たな道が開かれ、

それを続けていくことで

完成形、つまり 自分の目指していた場所 に 辿り着けるのだと思う。

 

 

「 今 」に集中することを 日々続けるからこそ、

道がパッと開けたタイミングで

 

自分が進もうとしている まっすぐな道と、

今まで開拓してきた デコボコな道を

振り返ったとき、

 

「 よしよし、いい流れだぞ。

ちょっとずつ 近づいているぞ。」

 

と思える。

 

 

日々、「 今 」 に集中することを始めて

約4ヶ月。

 

道が、パッと 開けたのを感じた。

 

不思議な感覚だったが、

もし言葉で表現するならば

ほんとうに、

 

「 パッ!💡 」

 

だ。

 

今後 この感覚が

やみつきになっていくことだろう。

 

 

5年後、わたしは 27歳。

30歳を目前にしている自分を

想像することが 全く出来ないでいるが、

 

今と 同じようなパッションで

いられたらいいな と思う反面、

 

今の自分には、到底 想像すら させて貰えないような状態になっているのも、

面白いな とも思う。

 

 

「 5年後、10年後、

自分を取り巻く環境が どうなってしまっているのかが 怖い。」

 

と口にするのではなく、

 

「 5年後、10年後、

自分が どう進んでいるのかが 楽しみ。 」

 

と、いつまでも 言える自分でありたい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

未来予測、そして「 今 」 〜 先を読みすぎる 症候群 ⑵ 〜

 

 

 

 

「 先を読みすぎる 症候群 」に関しては

その時のことをバラバラに書かず、

あえて 時系列に沿ったものとする。

 

 

以下は、

2月の終わり、「 先を読みすぎる 症候群 」が完治してからのもの。

( 2/26 の、わたしの Instagram から引用 )

 

 


- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - 

 


わたしたち人間は、
“ 未来を予測することは不可能だ ” と 気づいていただろうか。

 

 

今から10年前、


世の中に スマートフォンが普及し、
SNSが こんなにも発達して、

“ 歩きスマホ ” なんて言葉を
あちこちで耳にするようになることを、

果たして
10年前のあのとき、誰が想像していただろうか。

たった5年先の未来さえも、
わたしたち人間は、予測がつかないのだ。


これらと、わたしの過去の経験を踏まえて、
わたしが大事にしていること。


それは、「『 今 』に集中する 」こと。

時には、目先のことだけに とことん集中する
“ 勇気 ”を持つこと。


これは決して、
視野を狭くしているわけではない。

後先 考えずに、突っ込んで行ってるわけでもない。


「 その後が より良い状態になるために、
『 今 』なにをすべきか 」

を、一生懸命 頭を捻った上で
1つ1つ行動に移していく ということだ。


「『 今 』を集中して生きる 」ことへの覚悟って、
生半可な気持ちでは 出来ないと思っている。


もし こうなってしまったら、どうしよう。
このままで、果たして大丈夫なのだろうか。

たくさんの 不安や 恐怖、焦りと
対面することだろう。


やりたいことが より明確で、
且つ、将来への根拠のない恐怖に 打ち勝つことが出来たとき、

はじめて、
当たり前にやってくる毎日の中で
その一瞬一瞬に 集中することができる。


そして、
その『 今 』の積み重ねによって

過去の自分が置かれていた環境よりも、
きっと、より充実したものを作り出せるようになる。

 

ほんとうに、ちょっとずつかもしれない、
自分でも気づけないほど 小さな変化かもしれない、

けれど、いつの日か
ちょっぴり余裕ができて、

自分の変化を振り返るタイミングと出会えたとき、

少しずつ結果が変わってきていることに
ひっくり返るほど 驚くはず。


未来を恐れず、過去に執着せず、
『 今 』を生きる。

 

 

- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - 

 

次のblogへつづく✏️