理由は 簡単

 

 

 

 

「 笑夏 ( えみか ) 」が、このblogを書く理由...

 

“ 苦しいから ”     以上。

 

 

なに言ってんだ、バカか こいつは。

大半の人は そう思うだろうが

そこに関しては、致し方ないと もう既に割り切れている。

 

 

ただ、

先日 誕生日を迎えて 23歳になったばかりの

今、このタイミングを上手く利用し、これを明らかにすることで

 

自他ともに

“ その ” 存在を 深く理解できるチャンスだとも思った。

 

 

焦らしても仕方ないので、先に言ってしまおう。

 

“ その ” 存在 とは、

わたしの 頭 という器の中にある、「 源泉 」だ。

 

要は、

水や温泉が 湧いて出てくるのと 全く同じで

 

時に「 熟語 」単体で、

時に 驚くほど鮮明な「 ワンシーン 」が切り取られた状態で、

時に あまりに ふわふわした抽象的な「 イメージ 」で、

 

わたしの 頭の中にある器に

次から次へと、止まることなく湧き出てくる。

 

これが、源泉に 蛇口のようなものが付いていて

それを捻ることによって 湧き出てくる量を調整できたり、

そもそも 湧き出てくるのを止められたら、

 

もっともっと、この源泉を 上手く利用できるのだとは思うが...

 

今のところ、蛇口はおろか

源泉に被せる 蓋 のようなものさえも、見つかってはいないのだ。(笑)

 

だから時々、

湧き出てきたものが 飽和状態を経て、

わたしの頭の器から溢れ出てしまうことがある。

 

こうなったらもう

ひどい頭痛に襲われ、呼吸すら上手くできなくなり、

追い打ちをかけるように、目まいが始まる。

 

 

 自分自身も おかしな話だとは思うのだが、

この源泉は、わたしにとっては “ 生きている物 ” 。

 

これを飼い慣らす、

つまり、湧き出てくるものを上手く利用するには、

 

自分の「 中に 入れる作業 」よりも、

自分の「 外に 出す作業 」のほうに

重きを置くほうがいいと思っている。

 

 

結論を言ってしまえば、

 

blogという 1つの表現の場 を通じて、

器から溢れ出る前に、言い方を変えれば、苦しくなる前に、「 外に出す作業 」をしてしまおう

というわけだ。

 

 

だが、これが そうも簡単には いかない。

 

まず、

湧いて出てきたイメージに、「 言葉 」という形を与え

且つ それらを紡いで「 文章 」にする。

 

これらの

「 言葉 」への 変換 と、「 文章 」への 移行 を繰り返して

はじめて 他者に向けられるものになるのだから、

そこには 時間が要される。

 

わたしが、日常のコミュニケーションで発する言葉 1つ1つは、

実は この一連の流れによって もたらされている。

 

今、書いている この文章さえも、

「 イメージ 」から「 言葉 」への変換作業を経て、「 文章 」に移行されているのだ。

 

 

このblogは

わたしにとって、「 表現の場 」の1つである。

 

 

 

 

 

消去法で 生きる

 

 

 

 


わたしは、「 消去法な 生き方 」を好む。

 

 

 

これは、

わたしを取り巻く 環境下において

 

“ 身の回りの物や 事柄を「 増やしていく 」”

というよりも、

 

“ 大事なもの以外「 切り捨てる 」”

という、わたし独自の考え。

 

 

例えば。


机の引出し、タンス、
冷蔵庫、靴箱などなど。

 

仕事場から プライベート空間まで

わたしたちの身の回りに存在する あらゆるものは、


大きく分けて2つ、

「 いるもの 」「 いらないもの ( 今 使っていないものも含む ) 」に分類できる。

 

それは、

「 物 」という 目に見える形で存在するもの のみならず、

「 頭の中 」も同じだと思っている。

 

そこには、
「 今は使わないけれど ( なんなら最近は 全く使っていないけれど ) 、
もしかしたら 今後使うかもしれない 」

 

なんていう

中途半端な、3つ目の分類ボックスは存在しない。

 

重要なのは、 

「 いるもの 」「 いらないもの 」の 2つに

必ず 分類すること。

 

 

分類した結果、

そこから 自然と導き出されるのは

 

“「 今、必要ないもの 」を その場から取り去ることで、
必然的に「 ほんとうに大事にしたいもの 」が浮き彫りになる ”

 

ということ。

 

もちろん これは、

頭の中も 心の中も同じ。

 

必要ないもの、つまり わたしたちにとっての あらゆる「 ノイズ 」を取り去ることで、

 

わたしたちの身体が表現する、嘘偽りのない 素直な反応 を

自らの脳で作り上げた 理性に潰されることなく、


本能的な形 そのままに

受け取ることができる、というメリットを 兼ね備えている。

 

 

この反応は、本能的に感じるものだから


どうしても 身の回りに存在するノイズに 紛れて見えなくなってしまうもの。

 

自らが溺れてしまうほどの
あらゆる選択肢の中から、

 

手の届かない 遠くの方にある

小さな小さな「 大事なもの 」を探しにいくなんて、


少なくとも 今のわたしは、

そんな 途方もないことに費やす時間は

持ち合わせてはいないだろう。

 

 

 消去法な生き方に 切り替えてから、

決してノイズに紛れることなく

わたしの目の前に 姿を現した、

 

“ それ ” 。

 

わたしが 消去法の生き方 に切り替える前、

1番に集中したいと思い続けていたのに

なかなか集中できず 涙していた、ほんとうに大事なもの。

 

尚且つ、ほんとうに大好きで

途方もないほどに 愛おしく、心の底から守りたいと思っているもの...。

 

 

消去法で生きることによって、

“ わたしは、”  大事なものが

より明確になった。

 

さぁ、

次へのステージへと 歩み出そうじゃないの。

 

😊😊

 

 

 

 

 

 

 

 

「 今 」に集中する 〜 先を読みすぎる 症候群 ⑶ 〜

 

 

 

 

「 先を読みすぎる 症候群 」の記事は、

今回を 最後としたい。

 

 

もう少し、今までの流れを思い起こして

blogに残そうと考えたのだが、

 

道が開けた 今のこのタイミングで、

 

丁寧に過去を振り返り、

「 あの頃の自分があったから、今の自分がある 」なんて

そこら辺に 落ちているような台詞を使って、自叙伝を書き上げるつもりは、さらさらない。

 

2つ下書きしたページも、

思い起こして 言葉にすると

あまりに表現のリアリティに欠けてしまって、

あまりに ありふれた物すぎて、

全て削除してしまった。

 

過去が 今の自分を作っているなんて

そんなの当たり前で、

 

どういう形であろうが、今までの経験があったからこそ 今があるのも、

誰しもが同じ。

 

わたしは、そんな薄っぺらい表現を当てはめるほど

頭の中に生まれた余白を そのままの状態にして、日々を過ごすことはない。

 

 

 

わたしにとって「 過去 」は、

「 かさぶた 」みたいなもの。

 

過去に負った傷は

たとえ その時、血が止まらなかったとしても

 

時が経てば、

膿んだり ふやけたりを繰り返しながら

しだいに かさぶた になっていく。

 

“ かさぶたなんて、放っておけばいい ”

 

これが、わたしの「 過去 」に対する考え。

 

かさぶたなんて

放っておけば、気づかないうちに ポロッと取れている。

 

わたしにとって「 過去を振り返る 」ことは、

「 やっとできた かさぶたを、自らの手によって引き剥がす 」ことに等しい。

 

痒い 痛い を繰り返しながら

時を経て やっとできあがった かさぶたを、

 

また血が出てしまうことを分かっていながら、

なぜ 引き剥がそうとする?

 

なぜ あの頃の感情を、

わざわざ呼び起そうとする?

 

 

わたしたち人間は、

「 今 」を生きている。

 

過去でも 未来でも、

もっと言うならば、今日でもない、

「 今 」この瞬間だ。

 

たとえ目の前に、

どんなに素晴らしい世界があったとしても、

 

たとえ目の前を、

自分が掴みたかったチャンスが 通ろうとしていたとしても、

 

その時、

すくっても すくっても、手のひらから落ちていく水 のような「 過去の感情 」に 浸っていたとしたら、どうだろう。

 

あれも これも、と

「 未来 」への 不安や 焦り、恐怖に苛まれていたとしたら、どうだろう。

 

 

間違いなく

何を見ても、聞いても、感じても、

それを 深く味わうことは出来ないだろう。

 

あらゆるタイミングを感じ、

そのタイミングごとに訪れる1つ1つを 深く味わうことが出来るのは、

 

「 今 」に集中している人だけの 特権

だとさえ思う。

 

 

“ 流れ ” を把握し、

“ 方向性 ” や その中で生じた変化を見失わないようにしながら

 

その中の 目的 や “ 段階 ” を明確にし、

物事の “ 全体 ” を把握しながら進む。

 

でもそれらに 拘泥することなく、

いい意味で、ぼやーっとした霧に包ませておいて、

「 今、目の前にある “ コレ ” に集中する 」を大事にする。

 

 

お裁縫に例えるとするならば、

 

ここを縫おうと、布に チャコペンで “ 線を引っ張り ” 、

何ヶ所か 通過点になる場所を “ マチ針で仮止め ” しておく。

 

そこまで出来たら、

あとは “ ひたすら縫う ” ことに集中するのみ!

 

と いったところだろうか。

 

ひたすら 縫い進めていけば

必ず、マチ針に行き当たる。

 

その度に、また新たな道が開かれ、

それを続けていくことで

完成形、つまり 自分の目指していた場所 に 辿り着けるのだと思う。

 

 

「 今 」に集中することを 日々続けるからこそ、

道がパッと開けたタイミングで

 

自分が進もうとしている まっすぐな道と、

今まで開拓してきた デコボコな道を

振り返ったとき、

 

「 よしよし、いい流れだぞ。

ちょっとずつ 近づいているぞ。」

 

と思える。

 

 

日々、「 今 」 に集中することを始めて

約4ヶ月。

 

道が、パッと 開けたのを感じた。

 

不思議な感覚だったが、

もし言葉で表現するならば

ほんとうに、

 

「 パッ!💡 」

 

だ。

 

今後 この感覚が

やみつきになっていくことだろう。

 

 

5年後、わたしは 27歳。

30歳を目前にしている自分を

想像することが 全く出来ないでいるが、

 

今と 同じようなパッションで

いられたらいいな と思う反面、

 

今の自分には、到底 想像すら させて貰えないような状態になっているのも、

面白いな とも思う。

 

 

「 5年後、10年後、

自分を取り巻く環境が どうなってしまっているのかが 怖い。」

 

と口にするのではなく、

 

「 5年後、10年後、

自分が どう進んでいるのかが 楽しみ。 」

 

と、いつまでも 言える自分でありたい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

未来予測、そして「 今 」 〜 先を読みすぎる 症候群 ⑵ 〜

 

 

 

 

「 先を読みすぎる 症候群 」に関しては

その時のことをバラバラに書かず、

あえて 時系列に沿ったものとする。

 

 

以下は、

2月の終わり、「 先を読みすぎる 症候群 」が完治してからのもの。

( 2/26 の、わたしの Instagram から引用 )

 

 


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わたしたち人間は、
“ 未来を予測することは不可能だ ” と 気づいていただろうか。

 

 

今から10年前、


世の中に スマートフォンが普及し、
SNSが こんなにも発達して、

“ 歩きスマホ ” なんて言葉を
あちこちで耳にするようになることを、

果たして
10年前のあのとき、誰が想像していただろうか。

たった5年先の未来さえも、
わたしたち人間は、予測がつかないのだ。


これらと、わたしの過去の経験を踏まえて、
わたしが大事にしていること。


それは、「『 今 』に集中する 」こと。

時には、目先のことだけに とことん集中する
“ 勇気 ”を持つこと。


これは決して、
視野を狭くしているわけではない。

後先 考えずに、突っ込んで行ってるわけでもない。


「 その後が より良い状態になるために、
『 今 』なにをすべきか 」

を、一生懸命 頭を捻った上で
1つ1つ行動に移していく ということだ。


「『 今 』を集中して生きる 」ことへの覚悟って、
生半可な気持ちでは 出来ないと思っている。


もし こうなってしまったら、どうしよう。
このままで、果たして大丈夫なのだろうか。

たくさんの 不安や 恐怖、焦りと
対面することだろう。


やりたいことが より明確で、
且つ、将来への根拠のない恐怖に 打ち勝つことが出来たとき、

はじめて、
当たり前にやってくる毎日の中で
その一瞬一瞬に 集中することができる。


そして、
その『 今 』の積み重ねによって

過去の自分が置かれていた環境よりも、
きっと、より充実したものを作り出せるようになる。

 

ほんとうに、ちょっとずつかもしれない、
自分でも気づけないほど 小さな変化かもしれない、

けれど、いつの日か
ちょっぴり余裕ができて、

自分の変化を振り返るタイミングと出会えたとき、

少しずつ結果が変わってきていることに
ひっくり返るほど 驚くはず。


未来を恐れず、過去に執着せず、
『 今 』を生きる。

 

 

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次のblogへつづく✏️

 

 

 

 

 

先を読みすぎる 症候群

 

 

 

 半年...

いや、もう少し前だろうか。

 

わたしは 極度の「 先を読みすぎる 症候群 」だった。

 

ほんとうに、

この上もない というほどにまで、「 先読み 」や 「 全体の流れ 」を気にしすぎたおかげで

 

毎日、自分の好きなことをして 生活しているはずだったのに、

全くと言っていいほど

楽しいことが なに1つ見当たらない 時期があった。

 

むしろ

未来への過剰な不安や、それに伴った 焦り。

 

心慌意乱 という四字熟語では、

到底、言葉の表現力 が足りない と思うほど

 

わたしの心は

骨ばった指をした、爪の長い 魔女の手によって

鷲掴みにされているように、

 

息を吸うことすら ままならないほど

焦り 慌て、さらには 怯えていた。

 

 

当時の わたしの心は

その得体の知れない “ 何か ” によって、入り乱され 混乱するのに、 

さほど 時間を要しなかった。

 

 

 

でも ある時、

電車の中で、目の前の座席に座る 全員が

スマホを片手にしている姿を見て、

ハッとした。

 

スマホが普及した 現代、

すっかり当たり前になっている この光景が

 

わたしに

“ あること ” を気づかせたのだった。

 

 

「  7年前、

当時 高校1年生だった わたしは、

初めて 携帯を買ってもらった。

 

あの頃も、同じように 電車に乗って

今 目の前に広がっている光景と、全く同じものを見ていた気がする。

 

座席に座っている全員が、

携帯を片手にしている。

 

ただ、何かが違う...。

 

そうだ。

 

ガラケー ” を片手にしていた人たちが、

今や 全員、“ スマホ ” を片手にしているではないか。」

 

これに気づいたとき、

 

それまで、幾度となく涙を流し

悩みに悩んできた 数ヶ月間を、

完全に「 無駄な時間 」としてしまったことが判明した。

 

 

 

と、同時に、

無限に広がる 未来への 明るい光 を求めるどころか、

 

深くて 真っ暗な 海の底に

ひとり、もがきながら 沈んでいくようにと、

 

自らの “ 生きる背景 ” を 変えてまでして

自身を貶めてしまっていたのが、

 

他の誰でも、もちろん 運命でもなく、

紛れもない “ 自分自身 ” だったことに 気づいた。

 

 

わたしには、

自分の手で 守らなければ ならないもの がある。

 

それは、半年前も 今も変わらない。

 

あの頃は、それに対しての想いが 強かったからこそ、

自らの「 心に思い描く夢 」との 両立 が

不可能 にしか思えなかった。

 

そして

それと似たような道を、難なくクリアしていこうとしている、

当時のわたしから見たら

“ 恵まれた環境 ” を持ち合わせている人が、

羨ましくもあり、妬ましくもあった。

 

 

そんな風に

心が狭くなってしまっている状態だから、

 

当然だけれども、

自らの 意志 で選択した事柄ですら、

好きなこと、やりたいこと であるはずなのに

集中できなくなってしまい、

 

負のサイクルに 引きずり込まれていってしまった。

 

今となっては不思議だが、

 

あの頃は、とにかく 自分に降りかかる全てが

悲しく、残酷なものにしか見えなかった。

 

 

 

次のblogにつづく✏️

 

 

 

 

 

 

 

夜陰

 

 

 

あれから

どれぐらいの時間が経っただろうか。

 

全くの無意識で、

 

シャワーの設定温度を

いつもと比べて、はるかに高く設定した わたしは、

狭いお風呂場の壁に 背をもたれた。

 

強めの水圧と 60度に設定されたシャワーは、

わたしの身体に 幾度となく矢を放つ。

 

そして

目線の先にある すっかり結露した 扉は、

少しずつ 目に涙を浮かべて

それを ゆっくりと頬につたわせていった ...

 

 

しかし、

その 頬につたわっていった涙を

わたしは 最後まで見届けることができなかった。

 

鼻が ツーンとするような感覚に襲われ、

じわじわと 視界に濃霧がかかる。

 

そして

その事実に気づかせまいと、

熱いシャワーが わたしの頬をとらえた。

 

なんだか、生きているというより

死んでいるような気がした。

 

 

こういう記憶の断片が、

果たしてほんとうに

自らの身に、心に、起こったことだったのか

 

それとも

昔見た、一夜の夢の映像を、

わたし自身が 脳裏に蘇らせただけだったのか

 

このblogを書いている 今となっては、

そこまで重要ではないような 気もする。

 

 

なにより、

救いがたい 絶望の淵に沈むことを 強いられた

わたしは、

 

風前の灯火のような 原始的な本能を

 

この絶望の淵から どうやって這い上がるか

という一点に、今、集中せざるを得なくなっている。

 

 

が、それと同時に

 

この最大の悲劇を、客観的視点から

冷酷な目で観察することをしているのもまた、

わたし自身なのである。

 

 

 

 

 

2頭のメス ライオンの話

 

 



ある動物園に、
2頭のメス ライオンが暮らしていました。


その2頭は いつでもどんな時でも一緒で、

太陽が昇るのも、太陽が沈むのも、
どんな景色を見るときも

その2頭は 必ず、
肩を寄せ合うようにして 隣に座っていました。


そんなある日、

急遽 1頭のライオンが

別の施設へ移動することが決まり、

園内が 寝静まった夜

1頭のライオンは

いつもの檻の中から 忽然と 姿を消しました。


朝になって、
いつものように 目を覚ました
もう1頭のライオンは、

いつも側にいた 相方のライオンを探します。


檻の中を 何度も何度も、くまなく探し
声が出なくなるほどまで 相方の名前を呼び続けました。


でも、


別の場所に移動された ライオンが

そこに居るはずもなく、

 

残されたライオンは、

居なくなってしまったことを 後から知らされます。

 

そして

全てを知ったライオンの心に残ったのは、

悲しみと 孤独感 だけでした。


心にポッカリ空いてしまったその穴は、

残されてしまったライオンの 心だけでなく、
身体までをも 蝕みます。


そして、

残されたライオンの瞳に
次々と浮き出してくる 大粒の涙は、

かつて 相方が座っていたお気に入りの場所に、

相方のかすかな残像を 映し出していました。