人間は、みんな嫌われたくないと思って生きているんだよ。

 

 

 

 

「 いいか、人間っていうのはな、

みんな 嫌われたくない、好かれたいと思いながら生きているんだよ。

 

気づいてないかもしれないけれど、

お前だってそうなんだよ。」

 

 

あれは、中学1年生の時だっただろうか。

 

当時わたしは

クラスの学級委員長を任されていた。

 

担任の先生は、40代男性、

社会科の担当。

 

ある、クラスで長い間 問題になっていることについて

放課後、担任から 個別指導室に わたし1人呼び出されたことがあった。

 

自分の授業を妨害する者がいる

そして、自分に対してだけ、仕打ちが あまりに酷いと。

 

担任はわたしに、こう言ってきた。

 

そして、

「 なぜお前は、クラスの学級委員長なのに

問題を起こしている奴らに 注意をしないんだ?

 

お前が全部 やれと指示をしているのか? お前が黒幕なのか?」

と、付け加えてきた。

 

 

どうやら学級委員長というのは、

“ 担任の右腕 ” として存在しているべき立場だと確認したかったようで、

 

わたしが その “ 学級委員長 ” としての

存在価値に値しないと伝えたかったようだ。

 

 

当時のわたしは 単純に、

その くだらない授業妨害も くだらない担任に対しての仕打ちにも、

全くと言っていいほど興味がなかった。

 

これと言って授業が好きなわけではなかったし、

受験が近いから 勉強に集中しなければという 緊張感があるわけでもなかったから、

授業が進まないことに 何とも思っていなかった。

 

だからわたしは、特に口を出すでもなく

ただただ 机に肘を付きながら見ているだけだった。

 

 

たしかに、

学級委員長としての正しい姿 ではないことは

当時12歳のわたしでも分かっていたから、

 

感情的になっている担任に、少しだけ同情したのだが

次の瞬間、わたしの耳に衝撃が走った。

 

「 そうだよな〜 お前も人に好かれたいと思って生きているんだよな。

俺だってそうだよ、クラスのみんなに好かれたいと思っているから、強く怒らないんだよ。」

 

わたしは、すぐさま

「 違う。好かれたいなんて思ってない。」と否定したのを覚えている。

 

でも わたしの声をかき消すかのように、

冒頭に書いた、どこかの映画のセリフのような言葉を

わたしに押し付けてきた。

 

わたしには、その自覚が さらさら無かっただけに、

今でも脳の端っこに 古傷として残っている。

 

 

でも あれから10年生きてきて

22歳なりに ありとあらゆる経験をしてきた今、

素直に思うことがある。

 

みんな、どこか 他人に嫌われないように生きているのかもしれない、と。

 

しかしそれと同時に、

感情があり 自分だけの考え、アイデンティティをも持ち合わせているのが わたしたち人間だ、

とも思った。

 

 

 

次のblogに続く。

 

 

 

 

 

表現

 

 

 

 

「 blog📝 」という言葉を耳にすると、

大抵の人は こう、想像するだろう。

 

今日は どこに出かけた、誰と会った、

何を食べた、どう思った...

 

「 あぁ、今日あったことを書いているのね!」と。

 

 

そして、

それと同時に わたしに疑問を投げかけてくる。

 

「 毎日、仕事で 同じことの繰り返しなのに、

よく書くことあるよね。」

 

 

たしかに

朝起きて、歯を磨き、仕事に取りかかる。

 

仕事が終われば

夜ご飯を食べ、シャワーを浴び、歯磨きをして、お布団に潜り込む。

 

そうなっちゃうよね、って言わんばかりの、

絵に描いたような 1日のスケジュール。

 

もちろん 自らが望んで、この生活をしているのだから、これといって問題はないが、 

 

まさに、

型通り という表現がピッタリの生活。

 

モデルさんや 役者さんではあるまいし、

「 blog📝に書くことあるの? 」なんて聞かれても、 何一つおかしいことはない。

 

 

 

話は少し逸れるが。

 

わたしは どういうわけか、 

 

自分の “ 人間的な理性とは 切り離した、動物的な知覚 ” である「 感性 」が、

自分の中に溢れ返ってしまう状態に、度々なる。

 

それによって、「 感性 」という波に溺れ、

息ができなくなる現象にも襲われる。

 

 

「 感性 」と一括りに言ってしまったが、

 

創造的な側面も踏まえて、

あくまで “ 無自覚 ” であり、“ 直感的 ” なもの。

 

例えば、何らかに違和感を感じるように

これらは “ 非言語的なもの ” として

次々と わたしに襲いかかってくる。

 

 

以前 表現していたblog📝などは、

 

自らを奮い立たせるためであったり、

自分の中にいる、良くないイメージ を

払拭するための手段として、言葉を用いていた。

 

その頃は、

ただただ “ 言葉 ” が降りてきていた。

 

熟語1つの時もあれば、そのままフレーズで降って来るときもあった。

 

そのまま 紙にメモしておけば

言いたいことが 十二分に伝わる、

 

それくらい ほぼ完成形のものだったと言っていい。

 

 

だが、最近はどうだろう。

 

時間の流れとともに、

自分の様々な経験を通して

湧き出てくるものが 変わってきたのだろうか。

 

熟語や フレーズではなく、

頭では 到底 理解できないであろう、身体がザワザワした感じや、浮き上がる感じ。

 

どこか、

自分のリアクションを試されているかのような、感覚にさえ なる時がある。

 

 

わたしが このblog📝を使ってやりたいのは、

今日あったお話 を、つらつらと書くことではない。

 

わたし自身の身体で感じる、全てのリアクションを

嘘偽りなく、そのまま言葉として “ 表現 ” すること。

 

わたしは常に、

影響力のある「 表現者 」でありたい。

 

 

 

 

 

予測不可能、だから面白い

 

 

 

 

「 普通でいればいいのに。」

 

この言葉を、22年間生きてきて

複数回 耳にしてきた。

 

 

“ 普通 ” って、何だろうね。

 

赤 が好きな人もいれば、

青 が好きな人もいる。

 

ジャンクフード を食べたい人もいれば、

オーガニックな物しか 口にしない人もいる。

 

自分の好きなことをして 生きている人もいれば、

自分の好きなことのために 頑張って生きている人もいる。

 

 

同じ場所を歩いていたとしても、

 

スニーカーの人、ヒールの人、革靴の人、

足を引きずる人、肩で風を切る人、

 

スクランブル交差点のごとく、

全てが混在していて ほんとうに様々だ。

 

どれが普通で、どれが特異かなんて、

これっぽっちも分かりゃしない。

 

 

“ 普通 ” という言葉の意味として、

 

「 特に変わっていないこと、ありふれたものであること、それが当たり前であること 」

 

が あげられている。

 

たしかに。

今まで事例がないものに関しては

今までの当たり前とは「 異なった 」もの、

 

つまり、「 普通じゃない 」と位置づけされてしまうのだろう。

 

 

でも、よく考えてみて。

 

普通じゃないことをしてみる人がいるから、

新たな発見が この世にもたらされ、人類は 日々進化している。

 

 

いきなりスケールの大きな話になってしまったが、

 

もし、誰もが “ 普通 ” なことしかしなかったら...

 

「 これをしたら、この結果が出る 」という

究極につまらない、ハムスターの くるくる回る

定番のおもちゃ の様になってしまう。

 

 

もしも その結果が得たいのなら、

同じことをすればいい。

きっと、似たような結果を 手に入れることができるだろう。

 

だが、

もし そうではないのなら。

 

“ 普通 ” といわれる範囲にいても、新たなことは起きないだろう。

 

なぜなら、それ全てが 予測可能なのだから。

 

 

わたしは、自分が 予測可能になってしまったら 大問題だと思っている。

 

やっと スターティングブロックに足をかけたようなものなのだから、

ゴールが見え切ってしまっていては 面白くない。

 

予測不可能、だから面白いんだ。

 

 

何事も、挑戦し 進化するチャンスがあることは、

ほんとうに喜ぶべきこと。

 

でも大事にしなきゃいけないのは、

どのタイミングで、その「 新しさ 」を出すかどうか。

 

 

わたしは、

自分のインスピレーションを 意味あるものと思っていて、

心に吹き込まれたかのような、ふと感じる 不思議な感覚を、

自分の ちょうどいいタイミング だと踏んでいる。

 

インスピレーションを受けた瞬間を逃したら

そのチャンスは、もうとっくに走り去って行ってしまっているとさえ 思っている。

 

 

このblogを作るにあたっても

強いインスピレーションを受けたのだが、

 

この「 新しさ 」が どう評価されるのかは

これを書いている今、

 

完全に、予測不可能 である。

 

 

1週間後、

極めて破壊的な大打撃を受けるかもしれないし

意外にも、穏やかな波打ち際に 突っ立っていられるかもしれない。

 

 

どういう花が咲くか 分からない、

だから 種をまくのが面白い。

 

どういう結果が出るのか 分からない、

だから 仕掛けるのが面白い。

 

 

人間って 予測不可能でいるからこそ、魅力が出るもの。 だから面白いんでしょ。

 

 

 

 

 

 

 

 

『 pink hairの Victoria #ヴィクトリア 』

 

 

 

 

わたしが表現する、2つ目のblog。

 

 

以前使っていたblogは

瞳の端っこに置き、

 

あえて 少し離れたところから

新しいカタチで スタートを切る。

 

 

ここでのライターは、

『 pink hairの Victoria #ヴィクトリア 』

 

 

Victoria #ヴィクトリアは、

Pink hairと Bordeaux nailを好む 22歳。

 

ここ4年間で

3度の大きな挫折と、1度の小さな挫折と、

2度のメンタル陥没骨折をした経験を経て、

 

自らの life styleを

自らの手によってプロデュースするために生まれてきた。

 

 

曇った空気の中にあるであろう、

黄金のキラメキを求めて。